零の地平へ Ⅳ
Before the Image Settles

制作を積み重ねる歳月のなかで、私の意識は常に「作品」という結実へと向けられていた。
どのような写真が、自律した強度を持って残り続けるのか。なぜある像は時間を越えて現前し、別の像は静かに忘却の淵へ沈んでいくのか。構図、光、距離、あるいは階調。写真家として対峙すべきこれらの要諦に、私もまた、それなりの情熱を注いできた。
しかし歩みを止めることなく視線を研ぎ澄ませていくうちに、別の問いが静かに、だが確かな重みを持って現れ始めた。それは作品の質を測るものさしとは、明らかに次元の異なる問いであった。
なぜ、ある瞬間だけが「作品」となり得るのか。
同じ場所に立ちながら、膨大な時間はただ過ぎ去り、ごくわずかな断片だけが写真として留まる。そこには、技術や経験の範疇では説明しきれない「何か」が横たわっているように思えてならなかった。
写真は完成された像(イメージ)として現れる。私たちは通常、その像を鑑賞し、画面の中に「見えるもの」から言葉を紡ぎ始める。だが、私の眼差しは次第に、像が成立した「後」ではなく、その「直前」の領域へと移っていった。
像が結ばれ、意味として定着する前。
世界がまだ一つの解釈へと収束していない、未分化の状態。
振り返れば、長年「凪」と呼び続けてきた感覚も、常にその周辺に現れていた。単に静止しているから惹かれたのではない。何も起きていない空疎さを求めていたわけでもない。むしろ、無数の関係性が激しく拮抗しながらも、未だ一つの形へと定まりきらない「一瞬の均衡」のなかに、私は心を引かれていたのだ。
その認識に至ったとき、作品の見え方は決定的に変わった。
写真は結果にすぎない。そして結果だけを注視していても、その写真がいかにして生まれたのかという根源には辿り着けない。私が真に知りたかったのは、完成した像の意味ではなく、その像が現れることを可能にしている「条件」そのものであった。
光はどのように現れ、いかにして見出されるのか。目の前にありながら、まだ名づけられていないものが、なぜある瞬間にだけ像として結ばれるのか。
これらの事柄は、一見すると写真の外側に付随するもののように思える。だが実際には、それこそが写真の内部で起きていることの核心なのだ。私は写真から離れていったのではない。むしろ写真を極限まで突き詰めた結果として、その根にあるものへと向かうことになったのである。
作品は、問いの終着点ではなかった。
真の問いは、常にその奥に潜んでいた。
その問いを辿るうちに、私は語彙を変えざるを得なくなった。「作品」という言葉を捨て、「条件」という言葉を選ぶようになった。
作品とは、常に何かが現れた「後」の姿にほかならないからだ。
私が見つめようとしていたのは、像となる前後の世界を隔てる境界であり、まだ像になっていない何かが像へと移ろうとする、その「生成の場」であった。
後に「零の地平(Zero-Horizon)」として定式化されることになる思考は、ここから始まっている。
