写真を生きるための道
写真は、写真機を手にした瞬間から始まるわけではない。
世界と新たに出会い直すための行為。
写真を続けていると、ある問いに行き着く。
なぜ、その瞬間だったのか。
なぜ、その場所だったのか。
連綿と流れては消える時間の中から、なぜただ一つの光景だけが写真として残るのか。
その問いは、技術だけでは答えに辿り着かない。
構図や光、陰影、時間、露出。写真には学ぶべきことが数多くある。しかし、それらを積み重ねてもなお、 作品となる一枚と、そうならない一枚の違いは残り続ける。
長い年月を制作に費やすなかで、次第に関心は作品そのものから、その作品が生まれる以前の領域へと向かうようになった。
人は何を見ているのか。
なぜ、その光景に立ち止まるのか。
世界は、どのようなときに一枚の写真として立ち現れるのか。
写道は、そうした問いの中から育まれてきた。
写真を精神論に置き換えるためでも、特定の思想や宗教を語るための概念でもない。写真美術作家として作品を制作し続けるなかで積み重ねられてきた実践、
その長い時間から自然に形づくられてきた、一つの歩みである。
写真は、写真機を手にした瞬間から始まるわけではない。
何に眼が向かい、何を見過ごし、どのような距離で世界と向き合うのか。その静かな積み重ねが、像となる以前から写真を育てている。
一枚の作品は、シャッターを切る一瞬だけによって生まれるものではない。
見ること。
待つこと。
選ぶこと。
迷うこと。
迷いながらも、再び世界の前に立つこと。
その反復が、少しずつ撮る者の眼を育て、やがて作品の深さとなって現れてくる。
ここでいう「道」は、完成へ向かう一本道ではない。
経験を重ねても、見るという行為はいつも新しい。
技術は可能性を広げる一方で、ときに世界より先に答えを出してしまう。
知識は眼を育てる一方で、見慣れた固定観念によって世界を覆い隠してしまうこともある。
だからこそ、写道は技術を否定しない。知識も否定しない。
むしろ、それらを深く身につけながら、なお世界を新しく見ることを問い続ける。
身につけること。
手放すこと。
その二つは対立するものではなく、一つの実践の中で繰り返される営みである。
Zero-Horizon Photographic Artが、長年にわたる写真実践から育まれた理論と作品体系であるとすれば、
写道は、その根底を流れ続ける実践の時間を扱う。
何を撮るのか。
どのように撮るのか。
なぜ撮り続けるのか。
そして、写真を通して、どのように世界の前へ立ち続けるのか。
写道は、その問いに一つの答えを与えるものではない。
問いを失わずに歩み続けるための姿勢であり、制作を続けるなかで何度でも立ち返ることのできる場所である。
写真を撮ることは、世界を所有することではない。世界を説明し尽くすことでもない。
それは、ときに立ち止まり、眼の前にあるものが自ら姿を現すまで、判断を急がずに待つことである。
そのとき写真は、何かを得るための手段ではなく、世界と新たに出会い直すための行為となる。
写道とは、その出会いを幾度でも繰り返しながら、静かに歩み続けるための道である。

