木 村 尚 樹
fine photographic arts
写真芸術とは、光を通して人の内奥に宿る感情や記憶、そして祈りのかたちを映し出す行為である。
その中に位置づけられる「写真美術」は、作者の意識が創造として定着する領域――すなわち作品や制作物として評価され、社会的関係のなかで“美”が形を得る場である。
それは人の欲求が「見ること」から「見せること」へと転じる瞬間に生まれる、美の自覚の証とも言えるだろう。
「零式」という名は、そうした美術の枠をさらに越え、芸術の“限界”にまで歩み寄る概念である。
それは、限界芸術が立つ境界線――見えるものと見えないもののあわい、現象と存在が交錯する“地平”に立ち、そこに在る「零(れい)≒0」という無限の原点を見つめる試みである。
ここでの“零”は、単なる無ではない。
無にかぎりなく近いが、確かに息づく何か――世界と自己が触れあう臨界の振動、まだ形にならない“ゆらぎ”である。
その“ゆらぎ”は、日本の美意識における「もののあはれ」と呼応する。
確かに存在しながらも、つねに消えゆく運命にあるもの。
光と影が出会い、やがて別れていく、その刹那に生まれる静かな感応。
写真がとらえるのは、そうした“はざま”の気配であり、人の心にひそむ微細な波のような変化である。
「零式写真芸術」とは、その“ゆらぎ”を体験し、形に還すための設え(システム)である。
シャッターを切るという行為は、単に光を記録することではなく、存在の名残を地平へと還元する祈りのような営みである。
そこでは“写す”ことが“還す”ことへと変わり、写真は美術品である以前に、時間と記憶を媒介する“存在の声”となる。
「零式」という概念は、芸術が到達し得る最も静謐な臨界点を示す。
それは、無限の彼方を見つめながらも、手のひらにわずかに残る“光の名残”を掬い取ろうとする態度である。
写し取ることによって、世界を失わずに還す。
この矛盾の中にこそ、写真芸術の本質がある。
「零式写真芸術」は、その矛盾を抱きしめながら、
“無”と“ゆらぎ”のあいだに宿る、美のかすかな呼吸を聴こうとする思想である。
そこでは写真は技術でも表象でもなく、
人と世界とが交わるための、最も透明な祈りの形となる。
