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零式写真美術の位置づけ ― 「非在と顕れの境界としての構造的閾値」
いわゆる写真美術とは、写真という媒体を通して表現される美術の一領域である。そこでは、作品や作者という枠組みのもと、社会的評価や制度的承認といった人間的欲求が「美術」として定義されている。つまり、写真美術は美術体系の内部に属し、評価や流通を前提とした文化的装置の一部として存在している。 一方、零式(Zero-horizon)は、この体系の外側にある【🔧調整】 「制度以前の地点に着目する思考」 と構造的な隣接性をもつ。限界芸術とは、芸術の中心的制度から距離を取り、創造の起点を制度や評価の外部に見いだそうとした思想である。零式は、この姿勢を参照しつつも、その射程をさらに押し広げ、世界そのものが成立する以前の構造的地平(horizon) を扱う理念である。 零式が据える“0(ゼロ)”とは、単なる「無」ではない。それは、存在と非存在が分岐する以前に保たれている未分化の均衡状態 を指す。存在が消えゆく瞬間に現れる情緒的気配ではなく、世界がいまだ意味や主体を持たずに持続している構造的な閾値としての「0」である。 この零の地平において生じるのは、秩序と混沌、

cogito ergo sum
11月13日読了時間: 4分


零式写真芸術論
Theory of “Zero-Horizon Photographic arts” 零式写真芸術と零式写真美術 ― その位相と写道との関係 「零式(Zero-horizon)」という理念には、二つの層が存在する。 ひとつは、世界の生成構造が主体に先行して立ち上がる地点――すなわち “現象としての芸術”を指す零式写真芸術(Zero-horizon Photographic Art)である。 そこでは、写真は「作品」ではなく、世界の前相構造が一回的に痕跡化する現象として存在する。撮るという行為は、対象を固定することではなく、世界の構造的偏位と応答が成立する瞬間に立ち会う姿勢である。 もうひとつは、その理念を社会的文脈のなかに位置づけ、「作品」や「美術」として可視化した形態、すなわち零式写真美術(Zero-horizon Photographic Fine Art)である。こちらでは、作品が作者の意図や構成をともない、展示・記録・評価といった制度的体系に接続する。しかし、その本質はあくまで前者――世界の前相構造における一回的生成現象に基づいており

cogito ergo sum
2021年12月2日読了時間: 4分


Anthology rhymes V - 私詩韻集 -
-凪の 記 憶- -after dark- 人々が魑魅魍魎を恐れ、神にすがった闇の時代があったという。 人間らしさを取り戻したルネッサンスという名の夜明け、 幻想的な伴奏が聖歌隊とともに、その自由を賛美したことだろう。 金属の放つ鈍い光が厳格な守りの奥に眠っている。...

cogito ergo sum
2021年7月24日読了時間: 1分


Anthology rhymes IV - 私詩韻集 -
凪の記憶 -solitudine- 雲間 昨日から吹いている風には、湿度があった。 夕方になって、古い博物館を訪ねた頃には、 すっかり雨になっていた。 重い空気の中、石の階段の先に少しの澱み(よどみ)を感じる。 踊り場で足をとめていると、柔らかい光に虹彩がすくんだ。...

cogito ergo sum
2021年3月16日読了時間: 1分


Anthology rhymes II - 私詩韻集 -
The peppermint colored grass floating swayed,
and the shining surface of the water was carried away by the sunlight.

cogito ergo sum
2021年2月9日読了時間: 1分


Anthology rhymes - 私詩韻集 -
凪の記憶 L'attiomo id calma

cogito ergo sum
2021年2月3日読了時間: 1分
木 村 尚 樹
fine art photography
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